松代藩真田氏十代

 徳川家康の天下平定により、豊臣方についた昌幸・信繁父子は高野山麓の九度山に配流され、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
 徳川の臣下となっていた真田信之は家康から父の所領を受け継ぎ、上田を居城としますが、1622(元和8)年、松代への移封を命じられます。こうして真田氏による松代藩の治世が始まりました。
 信之をはじめ歴代の藩主は、町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行するとともに文武を奨励しました。廃藩・廃城となる明治維新まで10代250年にわたり藩を治め、風情と落ち着きのある現在の城下町・松代の礎を築きました。

松代藩真田家初代藩主 真田信之(1566~1658)

真田幸隆(1513-1574)

 1566(永禄9)年に昌幸の長男として生まれ、早くから父と共に上信両国に出陣していました。1590(天正18)年から沼田城主として11年間、 1600(慶長5)年から上田城主として23年間、1622(元和8)年から松代藩主として35年間務め、近世大名としての基礎を固めました。
 信之は、慶長5年の関ヶ原の戦いにおいて、父・昌幸と弟・信繁(幸村)と袂(たもと)を分って徳川方にくみし、以降徳川幕府の大名として沼田藩3万石お よび松代藩10万石の藩主の地位を築きました。1656(明暦2)年に次男・信政に家督を譲り、松代城下郊外の柴に隠居、1658(万治元)年93歳で没 しました。
 夫人は本多忠勝の娘で徳川家康の養女であった大蓮院(小松姫)です。
 墓と御霊屋が、松代町長国寺と隠居所であった柴・大鋒寺にあり、長国寺の御霊屋は重要文化財に指定されています。また、松代藩の藩祖として、松代町白鳥神社に武靖大明神の神号で祀られています。

二代藩主 真田信政(1597~1658)

二代藩主 真田信政(1597~1658)

 1597(慶長2)年、初代藩主・信之の次男として上野国(群馬県)沼田城に生まれました。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いに際して、信政は僅か4歳 で徳川家康のもとへ人質として遣わされました。この時、家康より藤四郎吉光の短刀を拝領し、真田家では重代の家宝として伝え、現在も当館に収蔵されていま す。1614(慶長19)年大坂冬の陣、翌年の夏の陣に、兄・信吉と共に、父の名代として出陣しています。1639(寛永16)年沼田藩主であった兄・信 吉が死去したために沼田藩主となりましたが、1656(明暦2)年父・信之の隠居により松代藩二代藩主に就任しました。
 信政は1658(明暦4)年2月、父に先立ち62歳で没しました。墓は松代町長国寺にあります。御霊屋も長国寺に建てられましたが移築され、現在は松代町・清野の林正寺にあります。

三代藩主 真田幸道(1657~1727)

三代藩主 真田幸道(1657~1727)

 1657(明暦3)年二代藩主・信政の六男として生まれ、翌万治元年2歳で家督を継いで三代藩主となりました。
この頃松代藩は、江戸幕府の有力大名として、様々な課役に従事しています。江戸城・日光東照宮の普請手伝、越後高田領・信濃高遠領の検地、信濃国絵図の調 製、善光寺の再建普請、富士山噴火の災害復旧手伝、朝鮮使節饗応、松本城請取り等相次ぐ課役に多額の藩費が投ぜられました。さらに1717(享保2)年、 二度にわたって城下町を焼き尽した大火に城も全焼し、初代・信之時代には36万両ともいわれる富裕を誇った藩財政は次第に困窮していきました。
 幸道は藩主として70年間務め、1727(享保12)年71歳で没しました。

四代藩主 真田信弘(1670~1736)

四代藩主 真田信弘(1670~1736)

 二代藩主・信政の長男・真田勘解由信就(かげゆのぶなり)の六男(七男とも)として1670(寛文10)年に生まれ、三代幸道の養子となり、幸道の死去 にともなって四代藩主に就任しました。幸道時代から続く藩財政の窮乏は、さらに厳しくなっていたとみられ、信弘が四代藩主となった頃、その状況は殿中で用 いる燈火の油にもこと欠いたとも言われています。
 信弘は、藩主として10年間という僅かな期間を務め、1736(元文元)年67歳で没しました。

五代藩主 真田伊豆守信安(のぶやす)(1714~1752)

五代藩主 真田伊豆守信安(のぶやす)(1714~1752)

 1714(正徳4)年、四代藩主・信弘の次男に生まれました。兄・幸詮が早世したため、1737(元文2)年家督を継いで五代藩主となりました。財政再 建のために、原八郎五郎を家老職・勝手掛に登用しますが、改革は失敗します。原が罷免された後に登用された、田村半右衛門は厳しい年貢増徴策などで領内の 反感を買い、「田村騒動」と呼ばれる百姓一揆を引き起こしました。
こうしたなか1742(寛保2)年8月に「戌(いぬ)の満水」と呼ばれる千曲川大水害、1751(宝暦元)年には埴科・更級二郡を襲った地震(高田地震) など相次ぐ災害にみまわれ、財政は更に悪化していきます。「戌の満水」を教訓とし、城と城下町を水害から守るため、千曲川の流路を城から離す「瀬替え」が 行われ、現在の流れに改められました。
 信安は藩主として16年間務め、1752(宝暦2)年39歳で没しました。

六代藩主 真田幸弘(1740~1815)

六代藩主 真田幸弘(1740~1815)

 1740(元文5)年、五代藩主・信安の子として生まれ、1752(宝暦2)年14歳で六代藩主となりました。この時、藩の財政は極度の苦境にありまし た。そこで、幸弘は家老・恩田木工民親(おんだもくたみちか)を勝手掛に抜擢し、藩政の改革・財政の建て直しを図りました。恩田木工の改革は一定の成果を あげ、幸弘も松代藩中興の祖といわれています。大名としても、江戸城大手門の門番など幕府の重要な仕事をこなし、1783(天明3)年には、従四位下に昇 叙しています。また、士風の振興のため儒学者・菊池南陽を招き、藩士に儒書を聴講させました。
幸弘は書画や文学にも造詣が深く、中でも俳諧をよくし、俳諧を通じて多くの大名や江戸の俳諧師と交流を深めました。俳号には白日庵菊貫(はくじつあんきくつら)などがあり、連句集「きくはたけ」、俳諧紀行「青葉蔭」などが残されています。
 藩主在任は47年間におよび、隠居して17年後の1815(文化12)年76歳で没しました。

七代藩主 真田幸専(ゆきたか)(1770~1828)

七代藩主 真田幸専(ゆきたか)(1770~1828)

 幸専は1770(明和7)年、近江国(滋賀県)彦根藩主井伊直幸(なおひで)の四男として生まれ、幼名を順介といいました。六代藩主・幸弘の養子となり、1798(寛政10)年真田家の家督を継いで七代藩主となりました。
 藩財政窮乏を告げる中で、1802(享和2)年江戸・隅田川御船蔵前と本所筋川の川浚普請を幕府から命じられ、上納金1万6千両の調達に苦しみました。 このほかにも日光代参など幕府の御用を務めています。藩主として26年間務め、1823(文政6)年に家督を譲り、1828(文政11)年59歳で没しま した。

八代藩主 真田幸貫(ゆきつら)(1791~1852)

八代藩主 真田幸貫(ゆきつら)(1791~1852)

 1791(寛政3)年白河藩主松平定信の次男として生まれ、1815(文化12)年に七代藩主・幸専の養子となり、1823(文政6)年真田家の家督を継ぎました。
江戸城大手門番を数度にわたって務めた後、1841(天保12)年に水戸藩主・徳川斉昭の推挙を受けて、幕府の老中となり、翌年からは海防掛を勤めまし た。性格は剛毅果断であったと伝わっています。文武を奨励し産業の開発が富国強兵の道であるとしてその興隆に努め、大砲や鉄砲を揃えるなど軍備を増強しま した。また人材養成に着眼し、佐久間象山・村上英俊などを登用したほか、目安箱を設置するなど藩政の刷新をはかりました。
幸貫は文芸にも秀で、書画や陶芸作品などが多数遺されています。1852(嘉永5)年に藩校・文武(ぶんぶ)学校の建築準備に着手してまもなく、62歳で没しました。

 

九代藩主 真田幸教(ゆきのり)(1835~1869)

九代藩主 真田幸教(ゆきのり)(1835~1869)

 八代藩主幸貫の孫として、1835(天保6)年に生まれました。父の真田幸良は家督を継ぐことなく早世したことから、1852(嘉永5)年18歳で九代 藩主となりました。幕末の動乱期にあり、嘉永7年のペリー来航の際には、江戸湾内の台場設営や横浜応接場の警衛にあたっています。1864(元治元)年に は京都御所南門の警衛のため藩兵を率いて京都に上りました。
幸教は病弱だったため、1866(慶応2)年治世15年で隠居し、1869(明治2)年35歳で没しました。
国指定史跡の新御殿(真田邸)は、参勤交代制の緩和に伴ない、父・幸良の夫人・貞松院の隠居所として、幸教によって建てられたものです。

 

十代藩主 真田幸民(ゆきもと)(1850-1903)

十代藩主 真田幸民(ゆきもと)(1850-1903)

 伊予国(愛媛県)宇和島藩10万石藩主・伊達宗城(だてむねなり)の長男として生まれました。九代藩主幸教が病弱であったため、養子に迎えられ、17歳 で松代藩十代藩主となりました。襲封直後に京都御所朔平門の警衛を命じられ上洛しました。1868(明治元)年からの戊辰戦争では、いち早く新政府軍に参 加し、飯山・越後・会津と藩兵を派遣しています。戦後、新政府より賞典禄3万石を賜りました。
 1869(明治2)年版籍奉還により松代藩知事となり、1884(明治17)年子爵、同24年に伯爵となり、1903(明治36)年54歳で没しました。